野生動物の救護とアニマルウェルフェア:動物園・水族館の役割
はじめに:動物園・水族館と野生動物救護
アニマルウェルフェアは、動物の心身の状態が良い「しあわせ」な状態であるという考え方であり、その実現を目指す具体的な取り組みを指します。これまで、動物園や水族館における飼育下の動物たちのウェルフェア向上について解説してきましたが、これらの施設は、実は野生動物の救護という重要な役割も担っています。
傷ついたり弱ったりした野生動物を一時的に保護し、治療やリハビリテーションを行って再び野生に戻したり、場合によっては施設で引き取ったりする活動は、動物の命を救うだけでなく、種の保全にも繋がります。しかし、この救護活動においても、アニマルウェルフェアの視点は非常に重要です。
ここでは、動物園・水族館が関わる野生動物救護の現状と、そこでアニマルウェルフェアがどのように考えられ、実践されているのかについて詳しく解説します。
動物園・水族館が関わる野生動物救護活動とは
動物園や水族館は、獣医師や動物の専門知識を持つ飼育員といった人材、動物を収容・治療できる施設、そして場合によっては地域のネットワークを持っています。これらの資源を活用し、様々な形で野生動物の救護に関わっています。主な活動内容は以下の通りです。
- 傷病鳥獣の保護・収容: 交通事故や自然災害、感染症などで傷ついたり弱ったりした野生の鳥類や哺乳類などを、自治体や関係機関からの依頼を受けて一時的に保護します。
- 治療・看護: 獣医師が傷病の状態を診断し、適切な治療や看護を行います。骨折の治療、栄養補給、感染症対策などが含まれます。
- リハビリテーション: 治療後、野生での生活に戻るための体力回復やスキルの再獲得を目指したリハビリテーションを行います。飛ぶ練習や泳ぐ練習、エサを自分で捕る練習などがこれにあたります。
- 野生復帰: リハビリテーションを経て、野生で生きていく能力が回復したと判断された個体は、適切な場所で自然に返されます。
- 引き取り・終生飼育: 野生復帰が難しいと判断された個体や、傷病の影響で本来の生息環境に戻れない個体は、動物園や水族館で引き取られ、終生飼育されることがあります。
- 調査・研究: 救護された個体から得られる知見は、野生動物の生態や傷病、環境問題に関する調査・研究に活用されます。
救護におけるアニマルウェルフェアの原則的配慮
野生動物の救護は、その性質上、動物にとって非常に大きなストレスとなり得ます。傷病そのものに加え、捕獲、搬送、見慣れない環境への収容、人間による接触などが加わるためです。したがって、救護活動においては、治療と同時に、動物の心身の負担を最小限に抑え、ウェルフェアを最大限に考慮することが求められます。アニマルウェルフェアの基本的な考え方である「五つの自由」や、より包括的な「五つの領域」の視点がここでも重要になります。
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五つの自由の適用:
- 飢えと渇きからの自由: 適切な栄養と水分を提供します。傷病個体には特別食が必要な場合もあります。
- 不快からの自由: 傷病の種類や動物種に合わせた、安全で静かな収容環境を提供します。適切な温度や湿度、隠れ場所の確保などが重要です。
- 苦痛、傷害、病気からの自由: 迅速かつ適切な治療を行います。痛みの管理も含まれます。
- 正常な行動を発現する自由: 可能な限り、その動物本来の行動(例えば、隠れる、探索する、休息するなど)ができるような環境や機会を提供します。リハビリテーションの過程では、野生復帰に必要な行動を促すことも重要になります。
- 恐怖と苦悩からの自由: 人間からの過剰な接触を避け、動物が安心できる環境を整えます。騒音や振動、予測不能な出来事から保護します。
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五つの領域モデルの適用:
- 栄養: 必要かつ適切な栄養の提供。
- 環境: 傷病の種類や回復段階に応じた、快適で安全な収容・リハビリテーション環境の整備。
- 健康: 傷病の治療、痛みの管理、予防。
- 行動: 適切な行動ができる環境提供と、リハビリを通じた野生行動の再獲得支援。
- 精神状態: 恐怖、苦悩、不安の軽減、ポジティブな経験の提供(難しい場合も多い)。
特に野生動物の場合、人間との関わりそのものが大きなストレスであるため、必要最小限の接触に留め、動物が人間を恐れず、野生復帰後に人間を過度に警戒しないように配慮することが重要です。
具体的な実践例と専門家の役割
野生動物救護におけるアニマルウェルフェアの実践は、動物種や傷病の状態によって多岐にわたります。
例えば、鳥類の場合、羽を痛めた個体には、飛ぶ練習ができる十分な広さのケージや、止まり木の高さを調整するといった工夫が必要です。水鳥であれば、水浴びや潜水ができる水場が必要になります。哺乳類であれば、隠れるためのシェルターや、登る、掘るといった行動ができる環境を用意することが望ましいです。
リハビリテーションにおいては、単に体力を回復させるだけでなく、野生で必要な採餌スキルや天敵からの逃避行動などを再び行えるように、段階的なプログラムが組まれることがあります。人工的な給餌から、生きた餌を自分で捕る練習へと移行させることなどが例として挙げられます。
これらの活動は、獣医師による治療、動物の行動や生態に詳しい飼育員や専門家による環境管理やリハビリテーション、そして動物の状態を注意深く観察し、適切な判断を行う関係者間の連携によって支えられています。個々の動物の状態を正確に評価し、その動物にとって最善の選択(野生復帰、施設での終生飼育、あるいは安楽死)を倫理的に行うことも、アニマルウェルフェアの一部として非常に重要視されます。
課題と倫理的な側面
野生動物救護におけるアニマルウェルフェアの実践には、いくつかの課題や倫理的な問いが存在します。
- 状態評価の難しさ: 野生動物は、捕食者から身を守るために自身の弱みを見せにくい性質があります。そのため、痛みやストレスの兆候を見逃さず、動物の状態を正確に評価することは容易ではありません。
- 馴化のリスク: 人間による手厚いケアは、動物が人間を恐れなくなる「馴化」を招く可能性があります。これは野生復帰を目指す上で大きな障害となり得ます。ウェルフェアを高めつつも、野生性を失わせないバランスが求められます。
- リソースの制約: 救護活動には、専門的な知識や技術、施設、そして人手や資金が必要です。限られたリソースの中で、多くの傷病個体に対応しながら、個々の動物に十分なアニマルウェルフェアを提供することは容易ではありません。
- 野生復帰の判断: いつ、どのように野生に戻すか、あるいは野生復帰が不可能と判断するかの基準は、動物種や個体の状態、生息地の状況などによって異なり、難しい判断を伴います。
- 安楽死という選択: 回復の見込みがない重篤な傷病や、回復しても野生復帰が不可能であり、かつ施設での飼育も適切ではないと判断される場合、苦痛からの解放のために安楽死が選択されることがあります。これは救護に関わる者にとって非常に重い判断ですが、動物のウェルフェアを最優先に考えた上での、苦痛からの「自由」を提供するための選択肢として議論されます。
まとめ:救護活動におけるアニマルウェルフェアの意義
動物園・水族館における野生動物の救護活動は、傷ついた命を救う尊い取り組みです。この活動において、アニマルウェルフェアは単なる「優しさ」ではなく、治療やリハビリテーションと同様に、動物の回復と将来に不可欠な要素です。
野生動物救護におけるアニマルウェルフェアの実践は、動物の身体的な回復だけでなく、精神的な苦痛を軽減し、可能な限りその動物らしい行動ができる環境を提供することを目指します。そこには、五つの自由や五つの領域といった基本的な考え方が深く根差しています。
一方で、野生動物という性質上、克服すべき課題や、倫理的に熟慮すべき点も多く存在します。動物園や水族館は、これらの課題に向き合いながら、専門知識と技術を活かして野生動物のウェルフェア向上に貢献しています。この活動は、私たちが野生動物や自然環境とどのように向き合うべきか、という問いを私たちに投げかけています。