アニマルウェルフェアの歴史的背景と発展:動物園・水族館における変遷
アニマルウェルフェアという言葉を耳にする機会が増えました。これは単に動物を保護することや、身体的な健康を保つことだけを指すのではなく、動物の精神的な幸福や、その動物本来の行動を発揮できるような環境を提供することを含めた、より包括的な概念です。特に動物園や水族館において、アニマルウェルフェアは施設の役割や運営において中心的なテーマの一つとなっています。
では、このアニマルウェルフェアという考え方は、どのように生まれ、発展してきたのでしょうか。そして、それが動物園や水族館にどのような変化をもたらしてきたのでしょうか。本稿では、アニマルウェルフェアの歴史的な歩みをたどりながら、現代の動物園・水族館におけるアニマルウェルフェアの重要性と実践について解説します。
アニマルウェルフェア概念の黎明期
動物に対する人間の関心や倫理的な考慮は、古くから存在しました。しかし、現代的な意味での「アニマルウェルフェア」(動物福祉)という概念が明確に意識され始めたのは、比較的新しい時代です。
かつて、人間と動物の関係は主に利用、または観賞の対象としての側面が強く、動物園や水族館も初期には珍しい動物を見せる「見世物」としての性格が色濃く出ていました。動物の飼育環境も、人間の都合や展示効果を優先することが一般的で、必ずしも動物本来の生態や生理的な要求が満たされていたわけではありませんでした。
しかし、科学技術の進歩とともに動物の生理や行動に関する理解が深まり、また社会全体の倫理観の変化に伴い、動物の扱い方について疑問の声が上がるようになります。特に、集約的な畜産における動物の扱いが社会的な問題として提起されたことが、アニマルウェルフェアという概念が注目される大きなきっかけとなりました。
「五つの自由」の誕生とその影響
1960年代、イギリスで畜産動物の福祉に関する問題が指摘され、これをきっかけに設置された調査委員会(ブラムベル委員会)の報告書に基づき、1965年に「五つの自由」(Five Freedoms)という基本的な動物福祉の原則が提唱されました。これは、アニマルウェルフェアを語る上で最も基本的な枠組みの一つです。
「五つの自由」は以下の5つの項目からなります。
- 飢えや渇きからの自由(Freedom from hunger and thirst)
- 苦痛、傷害、病気からの自由(Freedom from discomfort)
- 苦痛、傷害、病気からの自由(Freedom from pain, injury or disease)
- 正常な行動を表現する自由(Freedom to express normal behaviour)
- 恐怖や苦悩からの自由(Freedom from fear and distress)
これらの自由は、動物が健康で快適に過ごし、精神的にも安定した状態を保つために必要な基本的な要素を示しています。「五つの自由」は当初畜産動物のために提唱されましたが、その考え方は次第に実験動物、ペット、そして動物園や水族館の動物にも適用されるべきだという認識が広まっていきました。
動物園・水族館においては、「正常な行動を表現する自由」や「恐怖や苦悩からの自由」といった項目が、特に従来の飼育方法を見直す上で重要な指針となりました。狭い檻や水槽に閉じ込めるだけではなく、動物本来の行動を引き出すための工夫(エンリッチメント)や、動物が安心して過ごせる環境の整備が求められるようになったのです。
「五つの領域」への発展と現代のアニマルウェルフェア
「五つの自由」は動物福祉の基本的な考え方として広く受け入れられましたが、さらに発展的な枠組みも提唱されています。その一つが、ニュージーランドの動物福祉科学者、デビッド・メーラム氏らが提唱した「五つの領域」(Five Domains Model)です。
「五つの領域」は、「五つの自由」を基盤としつつ、より科学的かつ包括的に動物のウェルフェアを評価しようとするモデルです。以下の5つの領域から、動物の状態を評価し、より肯定的な経験を増やすことに焦点を当てています。
- 栄養(Nutrition): 十分かつ適切な栄養摂取
- 環境(Environment): 快適で安全な環境
- 健康(Health): 病気や怪我からの解放、迅速な治療
- 行動(Behaviour): その動物種にとって正常な行動を発現できる機会
- 精神状態(Mental State): ポジティブな感情(喜び、安心など)を経験し、ネガティブな感情(恐怖、苦痛など)を最小限に抑える
「五つの領域」モデルは、単に苦痛を取り除くというネガティブな側面だけでなく、ポジティブな経験を積極的に提供することの重要性を強調しています。動物が好奇心を満たしたり、遊んだり、社会的な交流を持ったりといった経験は、精神的なウェルフェアにとって極めて重要であるという考え方です。
現代の動物園・水族館では、「五つの領域」のような新しい知見を取り入れながら、アニマルウェルフェアの向上に取り組んでいます。具体的な取り組みとしては、以下のようなものが挙げられます。
- 飼育環境の改善: 動物の大きさや生態に合わせて、より広さや複雑さのある展示場・水槽を設計・改修する。隠れる場所、休息する場所、探索できる場所などを設ける。
- エンリッチメントの実践: 餌の与え方を工夫したり、おもちゃや遊具を与えたり、様々な刺激(香り、音、視覚など)を提供したりすることで、動物の心身を活性化させ、退屈やストレスを軽減する。
- 行動観察と評価: 動物の行動を注意深く観察し、それがウェルフェアの状態を反映しているかを科学的に評価する。異常行動の早期発見や、飼育環境の改善効果の検証に役立てる。
- 獣医療の向上: 予防医療、早期診断、専門的な治療体制を整え、動物の身体的な健康を維持・回復させる。
- トレーニング: 動物が自発的に協力できるようになるポジティブ・リーディングを用いたトレーニングを導入し、医療処置や移動の際のストレスを軽減する。
- 専門スタッフの育成: 動物福祉に関する最新の知識を持った飼育員、獣医師、研究員、教育普及担当者などを育成する。
今後の展望と課題
アニマルウェルフェアの歴史は、動物に対する人間の理解と倫理観の進化の歴史でもあります。過去の見世物中心の時代から、「五つの自由」、そして「五つの領域」のようなより洗練されたモデルへと概念は発展してきました。
現代の動物園・水族館は、単に動物を展示する場ではなく、種の保存、教育普及、そして動物福祉を追求する研究機関としての役割も担っています。しかし、限られた敷地や予算、来園者の期待、野生動物の複雑な生態など、アニマルウェルフェアを追求する上での課題は依然として多く存在します。
また、アニマルウェルフェアに関する議論は、動物の権利論や、動物園・水族館の存在意義そのものを問う議論とも関連しています。これらの議論は、社会の動物に対する価値観の変化とともに今後も続いていくと考えられます。
アニマルウェルフェアの歴史を知ることは、現在動物園や水族館で行われている様々な取り組みが、どのような背景から生まれ、どのような目的を持っているのかを理解する上で非常に役立ちます。そして、来園者一人ひとりが動物福祉に関心を持つことが、今後の動物園・水族館、ひいては動物全体のウェルフェア向上に繋がっていくことでしょう。